2013年8月30日

ローカルの魅力

グローカルという言葉がある。随分前によく使われていたように思う。グローバル化時代のローカルを、わりとポジティブに表現した言葉だと理解している。

最近は、その当時より耳にする機会は減ったようにも感じるが、この言葉の意味は、いささかもその価値を失っていない。むしろ、増大しているし、この先、ますます「ローカルの魅力」について考える重要性が増すことになるだろう。

「ローカルの魅力」というが、ローカルなら何でもいいわけでもない。どんどんローカルな魅力をこれから発見しましょう、というだけのことでもない。やや厳しくいうなら、同じローカルでも、魅力あるローカルと、そうでもないローカルがある。ただ、ローカルならいいわけではないのだ。

今は、学生たちと「フィールドワーク」という授業のため、NZの田舎街に来ている。でも、ただの田舎街ではない。田舎の良さにだけ溢れているというわけでもない。もちろん、周りの自然は素晴らしい(3つの国立公園と2つの海洋保護区に囲まれている)が、徒歩で完結する街の中心部には、魅力溢れるローカルなお店が溢れている。

レストランもカフェもレベルが高いし、アーティストのお店も多い。映画『ロード・オブ・ザ・リング』で使用された指輪を制作したというジュエリー専門店もこの街にある。

今回のフィールドワーク講義の共通テーマは、「自然と現代社会・現代文明との関係性を再考する」というものだが、学生たちには、「ローカルの魅力の源泉」についても調査してもらっている。

「魅力溢れるローカルとそうでないローカルとの分かれ道は何か?」というテーマである。今も、学生たちは、街を歩き、人に会い、話し、感じ、食べ、笑いながら、フィールドワーク敢行中である。明後日からは、泊まりがけで国立公園を、ネイチャーガイドと共に歩く。

「ローカルの魅力の源泉」という次の時代に核となるテーマの答えは、おそらく机の前で考えていても、ネットでどれだけ情報を集め、記事を読み、動画を見てもわからないと思う。

「Don't think, just feel!」の世界である。来て、見て、触れて、五感プラスαで「感じる」ことだ。その上で、自分の頭で判断したらよい。「常識のワナ」にとらわれないことだ。

「感動の質と量が深く大きいほど、人生はより豊かになる」と信じている。「自然が美しすぎて涙が出た」という種類の感動を大事にしたい。









2013年8月27日

最近の中東情勢をめぐる所感

エジプトもシリアも動いている。両国とも、多くの友人やお世話になった方々がいるので、心を痛めている。

エジプト情勢やシリア情勢について、書いたり、話したりしたことのいくつかが、活字になったり、番組になったりした。


シリア・レバノンを知るための64章』明石書店、2013年。

『エジプト政変』の裏に人口問題と油田減衰」『FACTA』2013年9月号。

エジプト騒乱に見る近代の終わりの始まり」(マル激トーク・オン・ディマンド 第645回(2013年08月24日)


今問題が起きているアラブ諸国の多くは、構造的要因が相俟って、情勢も展望も厳しい。


ここで指摘しているような構造的要因は、今混乱が起きている国や社会に特有のものではない。むしろ、先進民主主義国も含め、大いに関係がある。共通する問題を抱えているし、これから抱えることになる。


シリアもエジプトも、どこか遠い国の不幸なお話しでは済まされない。そのことに気づけるか、気づけないかの差は大きいと思う。

2013年8月19日

ミニマムライフ実践への道のり

思えば自分の人生のちょっと先を走っている人たちは、バブルの残り香を残しながら、その先に進んでいったように思う。常に、なんとなく、バブル時代への憧れが心のどこかにあったように思う。バブルを生きる大人たちの真似をしてみたかった。そんな想いがあったからだろう。

今でもあるのかもしれない。ホイチョイの世界観大好きだし、『私をスキーに連れてって』とか『バブルへGO』とか何度観たことか。でも、さすがに、自分なりの価値基準ができてきたように感じている最近は、もう少し離れたところから物事が捉えられるようになった気がする。

親と共に行動していた小学校時代を終え、中学に入ってからは、基本的に親へのお伺いは最小限で(たいがい自分ではどうしようもない規模のお金がかかることについての相談だった)、自分基準で自分の行動を決めていった。自分基準で決めているつもりでも、社会やマスコミや先輩たちや大人たちや友人たちの影響は大いに受けており、実際は決めさせられていたというところだろう。

これまでは、得られなかったバブルへの憧れも手伝って、これ持っているとかあれ持っている(ブランドものにはじまり、クルーザーとか、自家用ジェット機とか)というのが価値だったが、今オモシロイのは、どれだけ持っていないか、だという価値観に賛同するようになった。

というわけで、最近は、「ミニマリズム」の思想が面白くて、影響を受けながら実践を続けようと努力を続けているが、道のりは長そうだ。私の場合、モノをミニマルにするだけでなく、情報を含め、身の回りに降りかかるあらゆる「ノイズ」を可能な限り排除したいと楽しみながら、環境を整えている。

身の回りのものを捨て、スッキリさせ、自分に何が必要で必要でないかをハッキリさせていくためには、「移動」してみることだ。最近の生活パターンでは、山登りや、キャンプや、複数拠点をめぐりながらの国内移動や、比較的長期の海外出張などなど、「移動」の機会の度に、何が必要で何が必要でないか、いろいろと試行錯誤している。

家族単位で、家の中をシンプルにするには、引っ越しが役立っている。別に、ミニマリストを極めるために引っ越しをしているわけではないが、結果的に、グンとものが減るのは、引っ越しの後である。

物理的に活動拠点が変わると、モノだけではなく、人間関係なども含め、目に見えないものも一旦リセットされる。細かいことでは、新聞をとるのかとらないのか、ケーブルテレビには加入するのかしないのかなど、情報関係もリセットされる。モノがスッキリすることも気持ちがいいが、この情報周りのノイズからリセットされる気持ちよさも格別だ。

数えてみたら、結婚した2002年以降、自分の引っ越し回数は、9回になろうとしている(今月末もミニ引っ越しだ!)。引っ越しの度に、確かに身軽になっていく。気持ちがよい。でも、しばらく暮らしていると、すぐにモノは増えていくので用心しなくてはならない。

ここ数年は、複数拠点を移動しながらの仕事が多いのだが、年々、移動の度に持ち歩く荷物が少なくなっている。とはいっても、世の中のミニマリストたちは、もっとすごいことになっているので、こりゃ長い道のりだ、とマイペースで少しずつ自分が心地よく感じる環境を整えているところだ(とはいえ、まだ、自分の中に「得られなかった永遠の憧れとしてのバブル」の存在を感じることはある。たまにせめぎ合い)。

「捨てる」とか「手放す」は、もしかすると前の時代的にはネガティブな響きだったのかもしれないが、次の時代はポジティブな響きになるに違いない。実際、自分の周りにも、そんなポジティブさを求めて「捨てたり」「手放したり」する人は確実に増えている。