2012年3月1日

狩猟採集生活の生存戦略

「現代文明は早晩、大規模な変革を迫られることになるだろう」。こう主張する人の中には、ほとんど「崩壊」とでもいうべき形で、今の「当たり前」が成り立たなくなる世界がやってくると警告する者も少なくない。

確かに、石油ピークが顕在化することになると、現行の経済システムが成立しなくなる可能性が高い。世界は大混乱の渦に巻き込まれることになる、というのは十分にあり得るシナリオだ。

「崩壊論者」の将来シナリオの1つとして、こうした混乱の先に待ち受けているのは、「新たな原始時代」ではないかとの予測がある。つまり、ある種の「狩猟採集生活」が余儀なくされ、自分の家族の食い扶持は自分たちで確保する、自給自足を基本とする世界、そして「万人の万人による闘争」が繰り広げられる弱肉強食の世界が訪れるのではないかという予測である。

私の関心の1つに、こうした生きるか死ぬかというような厳しい社会環境下で、人と人との関係性を作り出す規範(行動原理)は何か、というものがある。そこでは「闘争」が行動原理の基本を占めるのか、それとも「協力」の余地はあるのか、という問題だ。

そんなことを考えていた矢先、たまたま観たNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか:第4集 そしてお金が生まれた」が面白かった。

番組では、カメルーンの先住民で未だに狩猟採集生活を行っているバカ族の生活が取り上げられていた。興味深いのは、バカ族に根付いている規範であり、行動原理だ。

この部族は、自給自足と狩猟採集によって生活を成り立たせている(したがって貨幣を必要としない)が、家族単位で生活をしているわけではない。数家族が集まってコミュニティを形成している。

狩りに出れば、獲物を仕留められた者も、仕留められなかった者も出てくる。獲物を捌くのは、その動物を仕留めた人が担当することになっているが、その際、獲物を仕留められなかった者の家族の分を含めて、キッチリと均等に分配するという。

獲物を仕留めた者が多くを取り、仕留められなかった者はゼロ、ないしは雀の涙程度の「おこぼれ」を貰うという仕組みではない。面白いのは、仕留めた者が、誰からも強制されることなく「自発的に」自分を含め均等に分配するという点だ。

番組の説明によると、これが最適な「生存戦略」なのだという。いわゆる「ガメてしまう人」は、仲間から蔑視の対象になるためだ。「ガメる人」や「ガメる家族」は、その一時は食料にありつけ生命を維持することができるかもしれないが、ごくごく近くにいる人から妬まれやすいし、蔑視の対象にもなりやすく、こうした感情が高じることになると、コミュニティの成員から命を狙われる事態に発展するかもしれない。

長期的な「生存戦略」を考えるならば、「裏切り」よりも「協力」を選んだ方が、より生存確率が増すといったところだろうか。つまり、こうした原始的な社会においても、ただ単に「闘争原理」のみが支配するのではなく、仲間内、コミュニティ内では、ある種の「協力」が芽生えうるということだ。

われわれは、狩猟採集生活と聞くと、自分の食い扶持は自分でとか、弱肉強食の世界というイメージを持ちやすい。しかしながら、どうやら人間社会というものは、それほど単純にできているわけではなさそうだ。

「闘争こそが次の時代の規範であり、人々の行動を支配する唯一の原理なのだ」と言われると、なんだか身も蓋もない話になってしまうが、「協力」やコミュニティ形成の余地があるという話であれば、創造的な思考の余地が残されていそうである。

これまでの人類史が示しているように、コミュニティ「間」では、相変わらず暴力による闘争が繰り広げられることになるのかもしれないが、コミュニティ「内」では、たとえ政府のような上位権威が存在しなくてもある種の「協力」を見ることができるというバカ族の事例は、次の時代を考える上でも示唆的である。

ここで疑問として生じるのは、人間同士の協力を引き出すことのできる「コミュニティの規模」の上限はどの程度までなのか、という問題である。番組で取り上げられていたバカ族は、せいぜい数家族程度のコミュニティであったが、それよりも大きな規模でも「自発的な協力関係」を引き出すことができるのだろうか。

簡単に答えを出せる問題ではないが、人間の本性に迫るうえで重要なポイントだと思う。そして、この「自発的な協力関係」を引き出し、ある種の「秩序」を発生させることのできる最大規模のコミュニティは、次の時代の「社会の構成単位」として大きなカギを握るような気がしてならない。