2012年3月13日

「ブーメラン」の破壊力

このままの生活が、今と同じ様なシステムが、この先もずっと続くわけがない。同世代の人たちとの個人的な会話において、こうした認識を示す人は驚くほど多い。みんな、内心では、今の延長線上に未来はない、と感じているようだ。

世間的にも、「何かおかしい」という風潮は、ここ1年で急速に人々の意識に浸透してきたような気がする。先日、書店をフラフラしていた時も、悲観的な近未来を描き出した著作が一気に増えてきたな、という印象を持った。帯には、でかでかと「国家のデフォルト」とか、「ハイパーインフレ」といった文言が並んでいる。

たとえば、マイケル・ルイスの『ブーメラン:欧州から恐慌が返ってくる』(文藝春秋、2012年)だ。ちなみに、この本の帯の文言は「メルトダウンツアーにようこそ!!!」である。


本書は、2008年の金融危機を見通し、サブプライム・モーゲージ債市場が崩壊する方に巨額の掛け金を注ぎ込み、一気に財をなした、テキサス州のとあるヘッジファンド経営者(カイル・バス)のエピソードからはじまる。彼が次に崩壊すると予測し、多額の掛け金をかけているのは国家だ。
カイル・バスによれば、金融危機は終わっていない。裕福な欧米諸国のじゅうぶんな信用保証能力によって覆い隠されているだけだという。わたしは金融危機の行く末について、バスと同僚たちが交わす意見にめまいを起こしそうになりながら、一日かけて耳を傾けた。個別の債権の崩壊など、もはや話題にはのぼらない。ここで話されているのは、世界のあちこちで国家が崩壊しつつあるということだった。(10頁)
カイル・バスが、一般市民に対してするアドバイスは、「銃と金(きん)」に手持ちの資金を投資せよということだそうだ。金は先物ではなく、現物の金だといい、机の引き出しからばかでかい金塊を取り出し、どんと置いたという。

さらに、米国の5セント玉を2000万枚買ったという。その理由は、「5セント玉に含まれるニッケルや銅の価格には、6.8セント分の価値があり、これから2年以内に、きっと5セント玉の金属含有率が変わる」と予測しているためだ(17-18頁)。

そんな彼と、彼の仲間が、最も多くの資金を破綻の側にかけているのが、日本とフランスだという。そして、人里離れた数千ヘクタールの土地に、広い屋敷、水道設備、軍用の自動小銃と狙撃用ライフルと小型の爆薬を納めた武器庫を作って、「その時」に備えているらしい(19頁)。

何もそこまでしなくても……、という声とともに、このテキサスのヘッジファンド経営者は、少し「狂って」いるのではないか、という感想も聞こえてきそうである。

とはいえ、こうした近未来予測は、特段新しいわけではない。特に、石油ピーク問題を憂慮してきた人々にとっては、かねてから主要な話題として取り上げられ、懸念が表明され続けてきた。

極めて単純化してその懸念を要約すれば、「数々の研究が指摘しているように経済成長とエネルギーの投入量とには極めて深い関係があり(この点については、ストローンによる『地球最後のオイルショック』の第5章が詳しい)、石油の生産量がピークを迎え減耗局面に入るようになると、経済成長も難しくなる。金利を組み込んだ現行の金融システムを維持するためには、少なくとも金利分の経済成長が宿命づけられているが、有限地球において金融システムが要求する無限成長は不可能であり、投入可能なエネルギー量が頭打ちになるにつれ、金融システムも崩壊することになるであろう」ということになる。

最近『ネイチャー』誌に掲載された論考が指摘しているように、原油生産の転換点は2005年頃だったという見解を真摯に受け止めるならば、その影響がグローバル化した金融システムを直撃するのは「時間の問題」だと考えるのは、それほど「狂った」思考とは言えなそうだ。

『ブーメラン』というタイトルは、副題が示しているように、米国発のサブプライム・ローン危機が欧州に渡り、欧州では国家デフォルト危機として顕在化し、その危機がブーメランのようにまた米国に戻りつつあるという状況を指した言葉である。

おそらく、この「ブーメラン現象」は、不可避なのだろう。議論が分かれるのは、この「ブーメラン」がどれほどの破壊力を持っていると見積もるか、ではないだろうか。場合によっては、少なくとも北半球の経済をメチャメチャにしてしまうほどの破壊力を持っている可能性もある。

この次の危機が、「国家」を壊すものだという予測が現実化するのならば、(壊れてしまう「国家」の国民にとって)「国家」に救済して貰うというシナリオは期待薄である。そう考えるならば、個々人がそれぞれ「ブーメラン」の到来時期とその破壊力を見積もり、対応策をとっていくということになるだろう。

自分の「国家」は、残るのか、壊れてしまうのか。壊れてしまうとすれば、どう対処しようか、というわけだ。

さて、結局のところ「狂って」いるのは、「ブーメラン」の存在とその破壊力の甚大さを信じる人々なのか、それとも「ブーメラン」程度ではびくともしないと現行の金融システムの存続を信じる人々なのか。

2012年3月7日

この世で一番好きなのは……

2歳の娘の寝かしつけ役は、たいてい私の役目。この役目は、とても気に入っているし、自分にとっても大切な時間となっている。

寝る前には、娘セレクションの絵本数冊を読むのが日課になっている。いくつかのお気に入り絵本があるが、娘も、そしてそれ以上に私が好きなのが『ぐりとぐら』シリーズ。読んでいて、とてもテンポがよく、気分がいい。

その中に出てくる、おきまりのフレーズ「この世で一番好きなのは、お料理すること、食べること」は、娘も気に入っているらしく、たまにひとりごとのようにつぶやいている。


子供の成長を見ていると、教育についていろいろと考えてしまうが、最近は少し前のエントリーでも書いた「農的な教育」というのに興味を持っている。「農業」に関する教育ではなく、「農的なアプローチ」による教育という意味だ。

この概念を知ったのは、ケン・ロビンソン卿のTEDでのスピーチだったが、詳しい内容は彼の著書『才能を引き出すエレメントの法則』(祥伝社、2009年)でも触れることが出来る。

この本で述べられている「エレメント」という概念が興味い。あえて数式で表すなら、次のようなものだろう。

エレメント = 好きなこと × 得意なこと

このエレメントを見つけ出し、時間も忘れてそのことに「ハマる」ようになれば、関連する能力は一気に伸びることになる。この「ハマった状態」とは、チクセントミハイの言う「フロー体験」のことだろう。

今の段階で、教育として、自分の子供に望むこと、してあげたいと思うことは、この「好きなこと」と「得意なこと」に気づかせてあげることだ。その後は、子供に任せようと思う。

自分が本当に「好きなこと」と「得意なこと」。この2つが出会う領域を自覚的に認識できるようになれば、後のことは何とでもなる、と思っている。

結局は『ぐりとぐら』だ。要は、「この世で一番好きなのは……」の後半部分を、自分できちんと埋めることさえ出来ればいい。

今のところ娘は、絵本のフレーズ通り「お料理すること、食べること」と口ずさんでいるが、そのうち娘オリジナルの「この世で一番好きなのは……」を見つけてくれることを期待する。

親としては、そのための邪魔をせず、より高いレベルで「この世で一番好きなのは……」を見つけるための環境を整えてやりたい。このプロセスの中にこそ、教育の本質が潜んでいるような気がしてならない。

2012年3月6日

シリア情勢を知るためのもう一つの視点

シリアで反体制運動が本格化してから約1年が過ぎた。ここ数ヶ月は特に事態は緊迫しており予断を許さない。一般市民の犠牲者数も急激に増加しているようだ。

アラビア語メディアはもちろんのこと、欧米のメディアでも関連ニュースが連日のように報じられている。シリアの成り行きは、域内のパワーバランスのみならず、広く国際関係全般にまで影響する可能性が高いため、当然といえば当然である。

シリア情勢をめぐっては、マスメディアのみならず、いわゆる「市民ジャーナリスト」経由でも情報が全世界に向けて発信されている。フェィスブックやユーチューブなどに、動画も多数アップされている。これらは、当事者の視点からの情報だと言えるだろう。

そんな中、私がシリア滞在中からずっとお世話になってきた山崎やよいさんが、ブログ形式でシリア関連の情報を発信しはじめた。山崎さんは、20年以上、シリア第2の都市アレッポをベースに活躍されている考古学者である。

シリアで20年以上暮らし、シリア人の旦那さんと結婚し、シリアで子育てをし、シリア人社会の中で生きてきたからこその視点が、新しく開設されたブログから伝わってくる。マスメディアで生きるジャーナリストとしての視点でもなく、シリアに生まれたシリア人とはまた違った形での「当事者」である、山崎さんならではの視点から見るシリア情勢はとても興味深いものがある(しかも、日本語で読めるというのは貴重だ!)。

とても悲しいことに、山崎さん最愛の旦那様(素敵な考古学者夫妻であった!)は、つい先日、突然と他界された。山崎さんのブログは、その悲しいエピソードから始まっている。

是非、一度、「シリア情勢を知るためのもう一つの視点」を通してシリア問題に触れてみて頂きたい(週に数回のペースで今後も更新されていく予定)。


<山崎やよいblog>
http://yayoi-yamazaki.blogspot.com/

※第1回目のエントリー「シリア、第二の祖国」から読み始め、一番下にある「次の投稿」を順にクリックしていくと、時系列を追いながら読むことができる。

2012年3月5日

ミニマリズムに惹かれる若者たち

手元にあった雑誌『クーリエ・ジャポン』をパラパラとめくっていたら、欧州の「脱成長」の話とセットでミニマリズムを実践する若者たちの記事が目にとまった。

「『100品』だけで暮らす"ミニマリズム世代"の肖像」『クーリエ・ジャポン』(2012年4月号)、112-115頁。

記事で紹介されているヨーロッパの若者は、みなモノをほとんど所有していない。自転車以外の持ち物全てを2つの工具入れに収まるようにするのが目標と語っている22歳の大学生も紹介されていた。

「もし家が燃えそうになったら、あなたなら何を持ち出しますか?」という質問に対し、持ち物を写真で納めて紹介しているサイト(http://theburninghouse.com/)を取り上げていた関連記事も面白かった。写真は、このサイトに掲載されていた、27歳のオランダ在住Interior Architectの場合から。


この記事の分析によると、「今日の20代の若者は一定の場所に落ち着く傾向が低く、住宅ローンを組むこともなければ、長期雇用を目指したりもしない。稼いだお金で世界のほんのちっぽけな場所の所有権を獲得しようとするよりも、移動しやすい状況を作り、より広い世界を見ることにお金を使う傾向があるのだ」(114頁)ということらしい。

こうした価値観は、まだまだメインストリームになっているとは言えないが、こうしたライフスタイルに共感する人々は確実に増えているように感じる。実際に、自分の周りには、こうした価値観を実践しようとしている人は多いし、自分自身も「所有物を減らす」という取り組みはここ数年来段階的に実施してきた(今年はさらに一段と加速化させる予定である)。

気の合う友人が家に泊まりに来たときなどは、夜な夜な「大きなスーツケース1つに入るくらいに自分の荷物を減らしたいね」という話で盛り上がる。何かあってもパタパタと荷物を詰めてたたんで、サッと移動できる身軽さをいつでも整えておこうね、という話になる。

この話題とセットでよく語り合うのが、「働き方」というテーマだ。こちらもお酒やコーヒーを飲みつつ、「職業が1つである必要なんて全然ないよね」とか、「その時その時でいろいろな生活の糧の得方があっていいんじゃない」とか、「一つの都市や国や場所にとらわれることなく、どんな場所でも、どんな環境でも生きていける逞しさを身につけたいよね」なんて話になることが多い。

不透明な将来に対する備え方はいろいろだと思う。要塞のような「自分の城」を築いて、どんな嵐にもびくともしないような環境を整えるという方法もあるだろう。その場合、必然的に場所に縛られることになる。

他方、このミニマリズムの記事に紹介されているような価値観の延長線で生き延びようとする戦略もあり得るだろう。「重装備」をかためることなく、柔軟性と環境適応力を最大限に追求し、身軽に生きる「ノマド型」の適応戦略とでも言える方法だ。

どんな方法でもいいと思う。人には適正がある。無理をしたところで、長続きしないだろう。自分が心地よいと思うやり方を追求すれば良い。ただし、この先「悪天候」が待ち受けていることは間違いなさそうである。その覚悟だけはもって、できる準備を進めていくことにしたい。

2012年3月1日

狩猟採集生活の生存戦略

「現代文明は早晩、大規模な変革を迫られることになるだろう」。こう主張する人の中には、ほとんど「崩壊」とでもいうべき形で、今の「当たり前」が成り立たなくなる世界がやってくると警告する者も少なくない。

確かに、石油ピークが顕在化することになると、現行の経済システムが成立しなくなる可能性が高い。世界は大混乱の渦に巻き込まれることになる、というのは十分にあり得るシナリオだ。

「崩壊論者」の将来シナリオの1つとして、こうした混乱の先に待ち受けているのは、「新たな原始時代」ではないかとの予測がある。つまり、ある種の「狩猟採集生活」が余儀なくされ、自分の家族の食い扶持は自分たちで確保する、自給自足を基本とする世界、そして「万人の万人による闘争」が繰り広げられる弱肉強食の世界が訪れるのではないかという予測である。

私の関心の1つに、こうした生きるか死ぬかというような厳しい社会環境下で、人と人との関係性を作り出す規範(行動原理)は何か、というものがある。そこでは「闘争」が行動原理の基本を占めるのか、それとも「協力」の余地はあるのか、という問題だ。

そんなことを考えていた矢先、たまたま観たNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか:第4集 そしてお金が生まれた」が面白かった。

番組では、カメルーンの先住民で未だに狩猟採集生活を行っているバカ族の生活が取り上げられていた。興味深いのは、バカ族に根付いている規範であり、行動原理だ。

この部族は、自給自足と狩猟採集によって生活を成り立たせている(したがって貨幣を必要としない)が、家族単位で生活をしているわけではない。数家族が集まってコミュニティを形成している。

狩りに出れば、獲物を仕留められた者も、仕留められなかった者も出てくる。獲物を捌くのは、その動物を仕留めた人が担当することになっているが、その際、獲物を仕留められなかった者の家族の分を含めて、キッチリと均等に分配するという。

獲物を仕留めた者が多くを取り、仕留められなかった者はゼロ、ないしは雀の涙程度の「おこぼれ」を貰うという仕組みではない。面白いのは、仕留めた者が、誰からも強制されることなく「自発的に」自分を含め均等に分配するという点だ。

番組の説明によると、これが最適な「生存戦略」なのだという。いわゆる「ガメてしまう人」は、仲間から蔑視の対象になるためだ。「ガメる人」や「ガメる家族」は、その一時は食料にありつけ生命を維持することができるかもしれないが、ごくごく近くにいる人から妬まれやすいし、蔑視の対象にもなりやすく、こうした感情が高じることになると、コミュニティの成員から命を狙われる事態に発展するかもしれない。

長期的な「生存戦略」を考えるならば、「裏切り」よりも「協力」を選んだ方が、より生存確率が増すといったところだろうか。つまり、こうした原始的な社会においても、ただ単に「闘争原理」のみが支配するのではなく、仲間内、コミュニティ内では、ある種の「協力」が芽生えうるということだ。

われわれは、狩猟採集生活と聞くと、自分の食い扶持は自分でとか、弱肉強食の世界というイメージを持ちやすい。しかしながら、どうやら人間社会というものは、それほど単純にできているわけではなさそうだ。

「闘争こそが次の時代の規範であり、人々の行動を支配する唯一の原理なのだ」と言われると、なんだか身も蓋もない話になってしまうが、「協力」やコミュニティ形成の余地があるという話であれば、創造的な思考の余地が残されていそうである。

これまでの人類史が示しているように、コミュニティ「間」では、相変わらず暴力による闘争が繰り広げられることになるのかもしれないが、コミュニティ「内」では、たとえ政府のような上位権威が存在しなくてもある種の「協力」を見ることができるというバカ族の事例は、次の時代を考える上でも示唆的である。

ここで疑問として生じるのは、人間同士の協力を引き出すことのできる「コミュニティの規模」の上限はどの程度までなのか、という問題である。番組で取り上げられていたバカ族は、せいぜい数家族程度のコミュニティであったが、それよりも大きな規模でも「自発的な協力関係」を引き出すことができるのだろうか。

簡単に答えを出せる問題ではないが、人間の本性に迫るうえで重要なポイントだと思う。そして、この「自発的な協力関係」を引き出し、ある種の「秩序」を発生させることのできる最大規模のコミュニティは、次の時代の「社会の構成単位」として大きなカギを握るような気がしてならない。